昭和52年04月11日 朝の御理解



 御理解 第45節
 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出る釘は打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」

 世に三宝様踏むなと言う事は大切なもの大事なもの、それをないがしろにしたりそれを踏みつける様な事をしたりという風に今朝は言ったと思います。私は今朝からしきりに、御祈念中に思った事ですけれども。金光様のご信心はいわゆるあの天地書附を機軸とこう言われますが。生神金光大神天地金乃神一心に願えおかげは和賀心にありと仰せられます。その和賀心が頂けれるために、今月今日を一心に願っていくと言う事。それはどう言う事かというと、どうぞ今日を大切にさせて下さいと言う事だと思うです。
 今日一日を大切にシテクダサイ。もう又とない今日只今で御座いますから、今日只今をどうぞ大切にさせて下さいと言う。この願いから私は金光様のご信心は発しておると思うのです。今日一日をいい加減な事になりはしない。愈々真剣に生きる。しかも大切にさせて下さいと言う願いの内容はね決して、三宝様踏む様な事は無いと言う事です。三宝様とは是に注が入れてありますね。穀物の意という。穀物というのは人間の言うならば、命の元である。いわゆる大切なもの。
 ほんならその命の元と言うのは、穀物だけではない。人間が生きていく上に、もうありとあらゆるご恩恵のなかにある、そのご恩恵のもの全てが三宝様である。その三宝様を踏み散らかしたり、ないがしろにしたりしたんではおかげにならない。所が私共が一日を締めくくって見ますとです。本当に目の粗い事に驚きます。本当にはぁ今日一日は、本当に慢心の一日だっただろうか。もう本当に油断の一日であった。
 それでも神様がおかばいの中に、お許しを頂いて、今日無事おかげを頂いたけれども、振り返ってみるとお粗末のことでありご無礼な事であり、慢心に満ちた一日で有ったりする様な事が多いのに驚きますよね。本当に自分のお粗末ご無礼に、気が付かせて頂きますと、本当に相すまんと言う事になってくるとね。あのお願いが出来なくなるですね、本当の事は。例えば人間対人間でも良いです。
 もうあっちにもこの頃ずうっとご無礼し続けておる。何かお願いに行かんなんばってん、もうご無礼し続けておるから行きにくうて。そんな事がありましょうが。本当に自分をご無礼者だいわば自覚が出来た時にです。もう神様にもうお願いする勇気がなくなるです。ご無礼をしておる人の所に、何か頼みに行かんならんけれども中々勇気が要る。行きたくないでしょうが。もうこの頃日頃ご無礼ばっかりしておるとに頼む時だけ来ちゃる。だから簡単にお詫びとか、願いとか御礼とか言ってますけれどね。
 私共が本当にお詫びと言う事の内容を、自分で分かった時にです。もう神様の前には出られんごたる感じがする。自分のようなお粗末ご無礼者。それでも神様はこの様におかげを下さっておるから有難いんだけれども、ほんならもうそれで良いかというと、願わなければならない事は一杯あるんです。これはもう私共が本当に、神様のおかげを頂かなければ立ち行かん。愈々無力である自分を分かれば分かるほどです、私のようなお粗末者、ご無礼者でもです。矢張り願わずにはおれぬ事があると言う事です。
 そこでですお願いが出来る、一つのルートを作らなければいけません。神様と交流する道を作らなきゃなりません。それにはね言うならば、詫びれば許してやりたいのが親心じゃと仰る。その親心に縋る以外ないです。神様また悪い事しました。神様またすみません。もう顔を上げられん。と自分の無力さ又は自分の無気力さ、もう本当にもう神様の前には、顔を上げられん思いでです。それでもね矢張り願わなければならん。願わなければならん事が一杯ある。
 願わねばならんためには、先ず詫びれば許してやりたいのが親心と仰る。その許して貰わなければならぬ。そこで私共が親心にすがるのです。許してやりたいそれが親心。その親心に縋った不思議です。もうそれでも願わずにはおれないから、お詫びさせて頂いておる。心からいうならばお詫びをさせて貰う、ずうっと一筋の光明が差してくるような、それこそ一筋の道が開けていく思いがする。もう本当に有難い私の様なお粗末者ご無礼者でもです。詫びれば確かに許して下さるんだ。その手応えが感じられる。
 そこからです。また願いが立てられる訳です。願いとか詫びとか簡単に言うのではなくて、矢張りね本当にそのお詫びをしておる、その内容とか実際というものを、分からせて頂くときにね。もう本当にもう勇気を出さなければ出来ません。お詫びして日頃はお粗末ご無礼でございます。お願いの時ばっかりすみませんと、それには矢張り勇気が要ります。今月今日で一心に頼め。もう繰り返し唱えておる事ですけれども。今月今日一心に頼むと言う事は、今月今日只今をどうぞ、大切にさせて下さいと言う事。
 今日を大切にさせて下さい。そこにほんなら大切にしていく、その手立てというものが、合楽理念にいわばまぁ微に入って、説明がしてある訳です。今日一日を大切にさせて下さい。もう本当に目が粗い実意丁寧を欠いておるその事実をです。私共が分からせて頂いて、今日を大切にさせて下さいという願いの元に、そこから一日が始まる。本当に例えば、朝こうやって出てまいります時に、私は何時も工夫するんです。自分の部屋から控えまでやってくる時に。
 何かこうして手を振り振り出てきて、はぁこりゃ自分な威張ったごたる心が内容にあるのじゃないだろうかと思った。それかと思うて、なら前の方へ手をこう組んでみるんです。丁度その金光様のお出ましの時の様に。こらまたあんまりこの、勿体なさ過ぎる金光様の真似なんかね。内容がね金光様の場合は、もう前に手を組んでおいでにならなければならない内容なんです。中々前に手が組めません。もう手は縮んでしもうて、どこに置いたなら良いか。あんまり上げると用意ドンのごとなりますからね。
 はっはははいや本当です。私がいっつも工夫してくるんです。そして自分なりに一番有難い、いわば手の振り方とか歩き方というものを、本当に朝は毎朝感じます。それをね特に強く感じ出したのは、この頃から中近畿の青年教師の方達が、あのここを撮影致しましたですね。私のあの出るところからここで、そん時に私はあの手の持って行き所がなかったんです。こうしたらいかにも金光様の真似のごたるし。でこうやって手を振り振りでもそこがですね。
 本当にそして分からせて頂く事は、自分自身の心の中に、相すまん時には相すまん態度が出てます。有難い時には、もう一足一足の中にその踏みしめ踏みしめ、有難いものをいわば噛み締めながら出ております。もう自分に本当に気が付くです。もう今朝なんか私は相すまんと言う思いが一杯でしたから。もう本当にもうばっかりもう縮んだような思いで、ここに出て参りました。そうしてほんなら今朝の御理解を頂いておる訳です。もう神様の前には出られんごたる感じがする。
 それでも願わなければならないことは、一杯なんだと言うて、もうどうか厚かましいごとしてから、出られんような感じがする。それでも願わずにはおられん。もうここに本当にご無礼をお詫びをするより他に無い。初めて本当のお詫びが出来るという感じがする。成程詫びれば許してやると言うのが親心と仰るが、本当だなと実感する。その親心に縋る。そこからね一つの光が、一筋すうっと目の前に見えるような気がする。新たなルートが、そこから開けてくるような思いがする。
 そこからまた願えども願えども、限りない願いに入っていけれるんです。四十五節を言うのはね。もう始終何時もが、真ん中だというふうに、私は何時も思いますよ。四十五節と言う事は。教祖様はそれを今中と仰っておられます。だから今中というのですから、ね。油断も出来ないし、また慢心を出す事も出来ませんよね。もう真ん中以上になった。もう通りがそこに見えてきたと言うのでしたらです。
 もうやれやれ安心が出来たり、安心と思いよったら、慢心だったと言う様な事になっておる。始終が五節である。真ん中である。昨夜のお月次祭のお説教の中にも申しましたように、いわゆるこれで済んだとは思いませんという生き方なんです。どうぞ今月今日を大事に、大切に頂かせてください。そういう願いもです今中であると言う思い。もうこれで済んだとはどんなに実意丁寧に、自分はしておる。
 もう上がってくる時から下駄も揃えて来ました。お便所へ行ったら、もうトイレットペーパーもきちっと、こう折ってきました。お風呂に入りましたら、もうタオルもキチット石鹸もキチットこうやって置いてきました。後は綺麗に水で流してきましたと、まぁ何時も例を取って申します。ほんなら下駄一つでもお便所一つ使わせて頂くでも、お風呂を使わせて頂くでもこうだと言っておる、いわば事なんです。もうこれほどしの事を、もうこれ以上の事は出来んと思う様な事にありますけれども。
 さぁそこは凡夫の事で相分からず、どこにお粗末があるやら分かりませんという姿勢なんです。そして厳密にほんなら、一日を振り返ってみるとです。目の粗い事に気が付きます。そういう日々をです。合楽理念に基づいてのあり方は、これがまぁ見やすいと言う事はないですけれども、そこに手掛かりと言う事がありますから、こういうときにはこうあるべき。こう思うべきこうなさして頂くべきだと言う様な所を、まぁ言うならばおかげを頂いていかなければなりません。
 私は昨日片手間片手間という、片手間信心と言う事を、皆さんに夕べちょっと聞いて頂いたんです。もう私共なんかそれに専念しておる。もうそれこそ神様と氏子が助かられる事の為の言うなら、尊い御用をこうさせて貰っておる。もうそれに専念しておるかの様にあってです。あの片一方の手ばこうやって、ガラスにやら貼り付けたのがありましょうが。あれを頂きますもん。
 はぁこら神様がお前の信心は片手間信心だと言っておられるなぁと思うて、厳密に自分の心のなかに、顕微鏡を当てて見る様な気持ちになると、確かに片手間であるなぁと思います。愈々いわばその身から打ち込んでのと言う信心をさせて貰う。そのその身から打ち込んでの信心とは、一生懸命にお参りをする事か。否そうではない。それは願わずにはおれない、頼まずにはおれない事があるから、一生懸命お参りしておるんだ。どうぞ今月今日をどうぞ間違いなく、今月今日を只今を大切にさせて下さいと言う願い。
 そして合楽理念に基づいて、大切にさせて貰う。それでもほんなら締めくくってみると、それこそ四十五節の心持で、それこそこれで済んだとは思いませんという様な心の状態であるかの様にありますけれども、先生と言われたりあれが出来たり、是が出来たりするようになって参りますとです。何時の間にか目の粗い言うならば、頭を持ち上げておるおかげの受けられない心が持ち上げておる。
 厳密に朝の私の一番有難い一時は、自分の動きそのもの。ほんなら自分の部屋から、控えまで出てくる間でも、自分のこう歩いておる姿勢そのものの中にでも、慢心ぶった歩き方をしておらんだろうか、手の振り方をしておらんだろうか。と言うてなら金光様の真似だけでは内容がない。結局自分の信心が、自分の心が顔色にも出ておる、態度にも出ておる。手の振り方一つにでも、まぁ心しながらおかげを頂いております。
 一日の上にもです。今日を大切にさせて下さいと言う事は、そういう心が何時も自分の心の中にある。所謂四十五節である。もうこれで済んだとなどとは、夢思いませんと言う、謙虚な態度、姿勢をもって信心は、愈々限りなく進めていかなければならない。神様は、自分の心の動きというものの上に大きな声を出して、はぁこれは間違いよるぞと言う様なお声をして下さいませんのです。
 けれども天は高いから、頭は打つまいと思うけれど、天で頭を打つのが、一番怖いと仰せられる。そういう天で頭を打つ様な事を、何時の間にか知らず知らずに積み重ねておる。そこで本気で一日一日を、自分というものを見極めて、詫びる所は本気でいわば神様に通うお詫びをさせて貰うて、願わなければならない事は一杯なのだから。その願いを持って信心を、日々の生活を進めていかなければならぬ。
 確かに本当に難儀をしておったと言うかね。何にもない時。まぁ私共のほんなら、修行時代の事を思うてみるとです。あぁいう時代に、本当にある意味で水も漏らさん信心というものは、あぁいう時分の時だったなと思うのです。だから修行時代が一番おかげの受け物を、完璧にするチャンスです。それを難儀にいうならば幻惑されると申しましょうかね。ただ自分の苦しい事難儀な事だけに、目を向けておりますと
 そういう素晴らしいチャンスを逃してしまいます。只今修行中という時ほどです。いうならば綿密な水を漏らさんような信心が出来るときなんです。愈々神様に心を向け通しに向けておらなければおれない時なのですから。確かに身代が出来たり、先生と言われるようになると、いわば頭が高い。それは神様がそう言うて下されば良いのですけれどもね。言うて下さらんのですから。
 迂闊にしておるとそれが油断、それが慢心になって、おかげを落とす様な事がある。金光様の信心が身に付くと言う事は、愈々実意丁寧が身に付く事だと思う。それはどうぞ、今日も一日、今日一日という一日を愈々、大切にさせて下さいと言った様な願いから始まる。また始まらなければならないというふうに思いますね。
   どうぞ。
 もう一切が親愛だという、その頂き方を、それを身に付けなければならんと、みんなが言いますけれども、その理屈の上で分かっただけでは、おかげに繋がりません。一切が神愛と実感して分かるためにはね。どうしても一切が修行だと受けられる信心が、先ず先に出来なければ。これは修行として受けた。これは修行として受けられんといった様な事でです。一切神愛なんてな事は分からん。本当の事は分からんですね。だから金光教の信心をする人達で、あのいわば一切が神愛とか、。
 言うならばそのどういう高度な道理やらを分らせて貰いましても、本当に日々が一切が神様の御働きの中にあるんだと言う事を分かっただけじゃなくて、働きだと分かって実意丁寧な生き方が出来れる為にはです。先ずその一切が修行だとして受けれる信心が出来た時に、初めて一切が神愛として受けれれる心。いうなら今日の御理解などはです。愈々今日一日を大切にさせて頂けれる心が、その実感としてね生まれて来る訳ですよね。
   どうぞ。